「好夢」書・大雄山前山主余語翠巌老師



◇禅のことば◇



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禅の言葉114「松樹千歳の翠」

「松樹千年の寿」などとも言う。
「千歳」とは、千古不易の意で、長寿をことほぐ句として、
また真理の普遍を表す句としても用いられる。
松の木は千年変わらぬ緑色で、時間を超越した真理の有り様を示している。


禅の言葉113「一滴乾坤を潤す」

菩提達磨大和尚の来た理由を問うたところ、白水寺和尚は「四溟窟宅無く、一滴乾坤を潤す」と答えた。
達磨大師の坐禅した洞窟はどこにもないが、たった一滴が天下を潤したと。
達磨大師の教えはやがて天下に広まって、私たちもまたその恩沢をこうむっているとの意。



禅の言葉112「一山行き尽くせば一山青し」

一つの山を越えると前方にはまた青い山が聳えている。
越えても越えても山また山の連続である。人生にもしばしば起伏があり、
紆余曲折がある。しかし、それを艱難と捉えずゆったりと受け入れることが大切であろう。



禅の言葉111「一月天に在りて影は衆水に印す」

瑩山禅師と峨山禅師の「二つの月」を連想する。天に輝く月はただ一つだが、
その月影はあらゆる場所の水にその影を落とす。
仏が出現してその教えは一切衆生ありとあらゆるところで受け取ることができる。
問題は、それが正しく受け止められているかであろう。



禅の言葉110「得るところ少なくして、その得るところ軽んずなかれ」

釈尊は人間の根本の煩悩として、「貪りの心」を悔やめておられます。
物欲・支配欲・名誉欲・権勢欲等々、色々な欲が私たちをとりまいています。
これらの欲は、大きければ大きいほど、苦しみも又増します。意欲や向上心を持つことは大切ですが、「足りる」事を知るのも大切ではないでしょうか。



禅の言葉109「応無処住而生其心」

「まさに住する処無くして、しかもその心を生ず」
「金剛般若経」の一節。一切は空であり、永遠に存在するものなどあり得ない。
故に心といっても実態があるわけでなく、現れた現象に応じて働くだけであると。
六祖慧能禅師がこの一語を聞いて大悟されたことはあまりにも有名である。



禅の言葉108「山色渓声古今無し」

 山の色も谷の声も古来変わらないとの意味である。
 言い換えるなら、山々の姿も谷のせせらぎも全てありのままの姿であり・br> それはそのままが仏の姿でもあり、仏の声でもあると。
 まさに仏の真の姿、その教えは変わらず今に伝えられている。



禅の言葉107「白雲自から去来す」

ある僧が「どうすれば生老病死の苦しみから逃れることが出来るのか?」
との問いに対する霊雲志勤禅師のお答えである。
白い雲は何事にもとらわれぬかのように大空を行き来していると。
言い換えるならば生死にとらわれている間は生死から逃れることは出来ないとのお示し。



禅の言葉106「渓声便ち是れ広長舌」

渓声便ち是れ広長舌、山色清浄身に非ざること無し。
夜来八万四千偈、他日如何が人に挙似せん。
唐の時代、蘇東坡の偈の冒頭にあります。
広長舌とは釈尊のお説法のことであります。
釈尊の説法もその清浄身も、自己の外に見るのではなく・br> 修行者が自己の正体に立って渓谷の声を聞き山の姿を見るところにあるのであって
釈尊の説法は常に我々のところにあることを説かれています。



禅の言葉105「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る」

キリスト教徒は洗礼を受けるとクリスチャンネームを頂きます。仏教徒は受戒得度を受けて戒名を頂きます。
受戒得度を受けることは、仏の御子(弟子)になることで、そのままが仏と同じ位になることです。
仏教徒としての誓いを立て、拠り所として生きていく証です。





禅の言葉104「誠心をもっぱらにして、前仏に懺悔すべし」

修行中でも、日常生活の中でも、時として怠け心が起きてしまいます。一生懸命にやらなければと頭ではわかっていても、たまにはのんびりと朝寝坊をしてみたいと思うものです。
 そんな時、誠心をもっぱらにして、お釈迦様の前で、まごころ込めて懺悔しなさいと、道元禅師は言われる。





「禅の言葉103「生死の中の善生、最勝の生なるべし」

出家の法は王位を捨てて出家するほど尊いものである。その最尊・最勝の出家学道も、人間として生を受け、仏法に巡り会わなければかないません。
 受けがたき人間に生まれ、会いがたき仏法に巡り会うことの出来た喜びを感謝された道元禅師の一言である。





禅の言葉102「杓底の一残水、流れを汲む千億人」

 道元禅師様は洗面の時、柄杓に汲んだ水を全て使うのではなく、残された水を元の流れに戻されたという。水を命とされた禅師の御心が伝わる。
 水不足に悩む、約750年後の現代にも通じることであるが、渇いているのは喉ばかりではない。現代人の心の渇きを癒すのも「半杓水」の教えである




禅の言葉101「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔」

懺悔(キリスト教ではザンゲと発音するが、仏教ではサンゲと濁らない)の無い宗教はないといわれる。
仏教の懺悔(さんげ)の大きな特徴は、犯した罪を悔い改めることはもちろんであるが、知らず知らずのうちに犯しているであろう罪がなかったか懺悔するところである





禅の言葉100「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」

「法句経」他多くの教典に示される言葉で「七仏通誡偈」と呼ばれるものである。
仏教は仏(覚者=目覚めた者)になるための教えである。仏となるためには、この「七仏通誡偈」の実践に他ならない。
すなはち、悪いことは一切しない、良いことは全て行いなさいとのお示しである。





禅の言葉99「願わくは此の功徳をもって、普く一切に及ぼし」

「願わくは此の功徳をもって普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」
読み方は色々であるが、各宗派で唱えられる回向文である。
大乗仏教では、諸菩薩は「自未得度先度他」と言われるように、自己の積んだ功徳を他の諸々の衆生のために巡らし、振り向けることを言う。





禅の言葉98「人身受け難し」

「三帰依文」の冒頭の一節である。
人間として生を受けた喜びを表す言葉であるが、決して他の動物に生まれなくてよかったということではない。
この私という存在が、全宇宙に包まれて生かされていることは、何にもかえがたい尊い存在である気付かされることである。
誕生仏の「天上天下唯我独尊」は、このところの釈尊お悟りを表した言葉であろう。




禅の言葉97「泥中の蓮華」

お釈迦様は「高原陸地に蓮華生ぜず、卑湿汚泥にこの花を生ず」と話されました。
蓮華は泥中にあって、はじめてきれいな花を咲かせます。泥なくしては決して美しい花は咲きません。
泥が大切で、泥があってこそはじめて咲く蓮華です。
泥を如何にして肥料として昇華していくべきか、私たちの生きて行く道にも泥中に学ぶことがたくさんありそうです。




禅の言葉96「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」

生と死とは生そのもの、死そのものをひっくるめた生命であり、生と死を明らかに見極めることは、真実の道を求める者にとって最大の課題であろう。




禅の言葉95「南嶽磨磚−なんがくません」

南嶽懐譲の弟子になった馬祖道一に、南嶽が尋ねた。「坐禅をして何を求めているのか?」と。
馬祖は「仏になるため」と答えた。
すると南嶽は、傍らの磚(瓦)を磨き始めた。
とまどう馬祖に南嶽は「磚を磨いて鏡にしようと思っている」と。
坐禅修行で仏になろうというのは間違いで、本来仏であることを自覚しなければいけないとのお示し。





禅の言葉94「見性成仏−けんしょぷじょうぶつ」

前月、「直指人心」に続く語である。
自分が備えている仏性に目覚めれば、仏になれるの意味である。
仏になると言うことは、本来の自分に目覚め、本来の自分に戻ること。
その実践の道が、坐禅であり写経であり詠讃歌である。何はともあれ、まず実践しないことには始まらない。




禅の言葉93「直 指 人 心−じきしにんしん」

あれこれ考えずに、人(自身)の心を直ちに指し示せ(心を見つめよ)との意味である。
盤珪禅師は「人間の心とは、本来鏡のようなものである」と示された。
鏡はきれいなものを映せばきれいなものが映される。汚いものを映せば汚いものが映される。人間の心とは、正に鏡のようであると。




禅の言葉93「汝、みずからまさに知るべし」

私達は、自分のことは自分が一番わかっていると考えがちである。果たしてそうであろうか?
実際のところは、自分自身のことが最もわかってはいないのではないか?
「法句経」に曰く、もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなはち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ「愚者」であると。自身を知ることこそが、仏道に生きる第一歩では?



禅の言葉−92 「汝、みずからまさに知るべし」

私達は、自分のことは自分が一番わかっていると考えがちである。果たしてそうであろうか?
実際のところは、自分自身のことが最もわかってはいないのではないか?
「法句経」に曰く、もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなはち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ「愚者」であると。自身を知ることこそが、仏道に生きる第一歩では?



禅の言葉−91 「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」

親鸞上人の一句である。
明日は花見をしようと思っても、夜中に嵐になって花が散ってしまうかも知れない。それほどに、明日の花見ほどあてにならないものはない。私達の心も同様である。今日やるべきことを先送りしながら生きてはいないでしょうか?




 
禅の言葉−90 「得るところ少なくしてその得るところ軽んずなかれ」

「仏句経」の中の一節である。
物欲・支配欲・権勢欲など、いろいろな欲が私達を取りまきます。欲は大きければ大きいほど苦しみもまた増すものである。
向上心も必要ではあるが、「足る」を知ることも大切である。





禅の言葉−89「釈迦ももとは凡夫なり」

「平家物語」の中の一節である。
4月8日はお釈迦様のお生まれになった日。
釈迦族の王子として生まれた釈尊も、私達と同じように悩み苦しまれたが、修行を積んで悟りを開かれた。
釈尊は生きとし生けるもの誰でもが仏となることの素養を持っていることを、身をもって示されたのである。

 



禅の言葉−88「色即是空 空即是色」

「般若心経」の中の有名な一節でる。「色」とは形のあるすべての存在。「空」とは実体のないこと。
この世の中に存在する全てのものは、常に変化しているから、存在そのものが一時的なもの、仮の姿で、いつかは消滅してしまうというのが本当の相であろう。
色に執着し、空に囚われてはいけないと。

 



禅の言葉−87「無?礙」

「般若心経」の中の一節で、皆さまにも親しみのある言葉ではないでしょうか。
 ?は引っかける意味。礙は妨げる、障害のこと。したがって「無?礙」とは、分別や妄想に束縛されない、とらわれのないこと。
 悟りを得たとしても、その悟りにとらわれているようでは、本当に自由な心とはいえないのでは?

 



禅の言葉−88「色即是空 空即是色」

「般若心経」の中の有名な一節でる。「色」とは形のあるすべての存在。「空」とは実体のないこと。
この世の中に存在する全てのものは、常に変化しているから、存在そのものが一時的なもの、仮の姿で、いつかは消滅してしまうというのが本当の相であろう。
色に執着し、空に囚われてはいけないと。

 

禅の言葉−86「以心伝心」

 お釈迦様が説法されているとき、大勢の修行僧の前で花を少しひねって見せた。これを見た修行僧の中で、只一人、迦葉尊者はその意を悟ったとされる「拈華微笑」の話は有名である。
 禅の世界は、文字や言語にとらわれず、心から心へ仏法を伝える、以心伝心の世界である。

 



禅の言葉−85「念々相続」

 詩人の坂村真民さんの詩に「念ずれば花開く」の一句がある。種を蒔き、水をやり、肥料を施し、太陽の恵みに会うと、苗はすくすくと成長し、やがては花を咲かせ、実を実らせる。
 道元禅師は「花開けば必ず真実を結ぶ」と、示されている。
 一粒の種を蒔き育てるように、一つの願いを常に心にとどめて育てると、やがては成就の花が咲くと。

 



禅の言葉−84「好事も無きには如かず」

 どんな良いことでも、それに捉われの心を起こすようなら、むしろ無い方がよいと。
 修行を重ね、悟りを開くのは並大抵のことではない。それだけに、悟りを得た時の喜びはひとしおであるが、それに捉われ、鼻に掛けては本物とはいえない。
 故に、悟後の修行が求められるのであり、精進を重ね、悟ったことさえ忘れ去るようでなければならないと。

 



禅の言葉−83「祖死父死子死孫死」

 出光のカレンダーでおなじみの、仙豪`梵和尚が、「何かめでたい言葉を書いて下さい」と、頼まれてしたためた。
 頼んだ男はたいそう驚いて、「こんな縁起の悪いものは家に掛けられない」と文句を言うと、仙腰a尚は、「何が縁起悪いものか。まず爺さんが死んで、次ぎに親父が死ぬ。次ぎに子が死んで最後に孫が死ぬ。順序正しく死んでいけば、こんなにめでたいことはない」と。
 私たちは、とかく文字にとらわれてしまうが、全体を見ると全く違う見方もできるのである。

 



禅の言葉−82「応無所住而爾生其心」

 「応に住まる所なくして、その心を生ずべし」とは、「金剛経」の有名な一節である。
 住まる所がないとは、心が一つ所にとどまらないことで、何ものにもとらわれないこと、執着しないことである。
 物にとらわれ、執着するところに深い迷いが現れるので、ここを乗り越えれば、何事にも自由に対処することが出来るのでは?

 



禅の言葉−81「光陰虚しく度ることなかれ」

 石頭希遷禅師のお示しである。6月10日は「時の記念日」、月日の経過は驚くばかりの早さである。
 「この日すでに過ぎぬれば、命もまた随って減ず、少水の魚のごとし」といわれる。過ぎ去った時は呼び戻すことも出来ず、歳月は非情にも過ぎ去っていく。
 虚しく過ごしてきたことを反省し、精進に勤めましょう。

 



禅の言葉−80「冷暖自知」

 「証の得否は、修せんものおのずからしらんこと、用水の人の冷暖を自らわきまうるがごとし」という、「正法眼蔵−弁道話」の一節がある。
 禅では、冷たい暖かいも自ら体験しないとわからないものとし、修行者がどんなに願っても指導者は教えることを拒み、自ら悟らせるように指導する。
 自ら苦労して学び、それを活かすことによって、自らを成長させんとするのである。

 



禅の言葉−79「従来失せず、何ぞ追尋を用いん」

 「十牛図」の第一、尋牛に「本来失っていないものを、何故追い求めるのか」さらに、「自分自身が悟りから目を背けているから、煩悩に汚され、真理を見失ってしまう」と。
 人は真理を求めるが、それが何であり、どこにあるのかが、なかなかわからない。
 求めるべき真理は、他にあるのではなく、自らの心の中にあるとのお示しである。

 



禅の言葉−78「見性成仏」

 自分が備え持っている仏性に目覚めれば仏になるという。仏になるということは本来の自分に戻ること。夢窓禅師は次のように譬えられた。
 「酒によって本心を失っている状態から、酔いが醒めて本心に戻ったようなもの」と。
 今の今まで自分だと思っていたものがなくなって、本来の自己になる。
 その実践が、坐禅であり、写経であり、御詠歌である。その方法は変わっても、目的とするところは同じである。


禅の言葉−77「涅槃寂静」 1999/2/1

 二月十五日は釈尊が亡くなられた日で、これを記念して涅槃会法要が営まれる。そのためかどうか、一般には涅槃=消滅・死などと解釈されがちである。
 仏教で言う涅槃とは、最終理想世界、煩悩を解脱して真理を究め、迷いの生死を超越した不生不滅の法を体得することである。涅槃とは死ぬことではなく、生死を越えた無限の世界での真実の生命のこと。
 只坐禅し、只写経し、只詠唱する世界が涅槃への道である。




禅の言葉−76「一日作さざれば一日食らわず」 1999/1/1

 高齢の百丈禅師を気遣った弟子達は、農具を隠して禅師に休養をしてもらおうと思ったが、禅師は「一日作さざれば一日食らわず」と言って、食事をされなかった。
 農作業のような作務も、大切な修行と位置付け、坐禅と同列と考える。その修行をしなかった百丈禅師は、あえて食事をとらなかったのである。
 食と修行を結びつける、禅の心が見える。「働かざる者食うべからず」と言う言葉があるが、これは他に対しての言葉であるが、禅のこれは、常に自分の問題として自立的・主体的な問題としているのである。





禅の言葉−75「趙州洗鉢」 1998/10/1

 ある修行僧が趙州和尚に「どうか禅の奥義をお示し下さい」と、尋ねた。すると趙州和尚は「朝のお粥は食べたか?」と聞いた。修行僧が「食べました」と、答えると趙州和尚は「では鉢を洗っておきなさい」と言われた。
 今なにをすべきなのか?今できることをせよ!とのお示しであろう。
 真実は己の他にあるのではなく、自分自身の中にあると定めれば、己の行住坐臥そのままが仏の営みであるという禅の極意を示したものであろう。





禅の言葉−74「死ぬる時節は死ぬがよく候」 1998/9/1

 「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」」新潟の大地震にあった良寛さんの見舞いの返事である。
 「なんでこんなことになったのか?」とか「こうしておけばよかった」などと悔やんでも問題の解決にはつながらない。
 真正面から問題にぶつかっていくところに道が開けるのでは?これは「諦め」ではなく、道を「明らめる」ことである。





禅の言葉−73「挙一明三」 1998/7/1

 一を挙げて示せば三を知ることで、「一を聞いて十を知る」と同じこと。
 お釈迦様は四種類の馬と人の話をされた。第一の馬は鞭を振り上げただけで走り出す。第二は鞭が尻尾に触れるや走り出す。第三は鞭で叩かれて走り出す。第四は鞭でおもいきり叩かれてようやく走り出すと。
 第一の人は他の町の住人の死を聞いて自分の死を自覚する。第二は近所の死を聞いて自覚する。第三は近親者の死を聞いて自覚する。第四は自分自身の死を目前にして初めて自覚すると。
 皆さんはこの中のどれに相当しますか?





禅の言葉−72「本来無一物」1998/6/1

 神秀は「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむことなかれ」と、努力を怠ることなく、煩悩の塵を拭き去るようにしなければならぬと。
 これに対し六祖慧能は「身は菩提樹に非ず、心は明鏡台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」本来何も持っていないのだから、煩悩の塵など降りかかりようがないという。
 これまで身にまとってきたものを捨て去り、何物にもとらわれず、執着せず、只、今を生きる自分こそが真実であると。





禅の言葉−71「本具仏性」1998/5/1

 亡くなった人を「ほとけ」と言うが「人は生まれながらにして仏である」との考え方が仏教の教えである。
 生まれたばかりの赤ちゃんや幼子は大人より純真無垢である。しかし、成長と共に自我も芽生え、自己中心の考え方が増長してくる。
 人が本来備えているはずの(本具)仏性を磨き出すには修行が必要なのである。
 そうすれば生きながらにしての「ほとけ」となれるのである。





禅の言葉−70「天上天下唯我独尊」1998/4/1

 釈尊がお生まれになった時、七歩歩かれて唱えられたという言葉で、どなたも一度は耳にされたことであろう。しかし「唯我独尊」だけが一人歩きし、自分だけが尊い存在と、曲解されているようである。
 この宇宙の中で「自分」こそは、かけがえのない尊い存在であるが、同時にとなりのA君もB君も又、それぞれがかけがえのない、尊い存在であることを忘れては成らない。
 お互いがお互いの違いを認め合い、尊重することが「唯我独尊」の大前提である。





禅の言葉−69「拈華微笑」1998/3/1

 釈尊は、晩年のある説法の時、一言も発せずに一輪の金波羅華を大衆の前に示された。
 ほとんどの弟子達は、釈尊が言わんとする意味を理解できなかったが、摩訶迦葉一人がにっこり微笑んでうなずいたという。
 釈尊はこれを見て、「我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり。教外別伝、不立文字、摩訶迦葉に附嘱す」と言われた。
 文字では伝えることの出来ない以心伝心の妙味が禅の命であろう。





禅の言葉−68「婆子焼庵」1998/2/1

 ある老婆は20年余りの間、一人の修行僧の世話をしていた。いつも少女に食事を届けさせていたのであるが、ある時、少女に修行僧を誘惑するように言った。
 しかし修行僧は「枯れた木が冬の岩に立つように、私の心は全く熱くは成らない」と言って、少女の誘惑を断った。
 これを聞いた老婆は、自分はこんな俗物の世話をしていたのかと、修行僧を追い出し、庵を焼いてしまった。





禅の言葉−67「非風非幡」1998/1/1

風にたなびく幡を見て、一人の僧は、
「これは幡が動いてる」と言い、
もう一人の僧は、
「いいや、これは風が動いているのだ」と言い、二人は自分の説を主張し譲らなかった。
そこに通りかかった六祖慧能は、
「幡が動くのでも、風が動くのでもない。あなたがたの心が動いているのだ」と言われた。

 





禅の言葉−66「達磨安心」1997/12/1

雪の降りしきる中、坐禅をしている達磨大師のところに、慧可和尚が尋ねてきた。
慧可は「心が不安でたまりません。この不安を取り除くにはどうしたらよいでしょうか」と尋ねた。
達磨は「不安な心をここに出してみなさい。そうすれば安心を与えてあげる」と言うと、
慧可は「出そうとしても出すことが出来ません。心にはかたちがないからです」と。
達磨は「それがわかれば安心したはずだ。なぜなら形のないものに悩みがあるはずがない」と。





禅の言葉−65「修行と修業」1997/11/1

修業とは一つの業を習い修めることで、規定の習得がすめば卒業とか資格を得ることが出来ます。
ところが修行には終わりがありません。それは祖師方の行じられてきた道を修め、護持することであります。
言うなれば修業は自分個人のために業を習い修めることであり、修行は何も求めず、祖師方の歩まれた道を、只ひたすらに行ずることであります。

 





禅の言葉−64「無功徳」1997/10/1

梁の武帝は達磨大師に尋ねられた「朕は今までにたくさんの寺を建立したり、写経をしてきた。また大勢の僧侶達にも多くの供養をしてきたが、はたしてどのような功徳があるのか?」と。
すると達磨大師は「無功徳」と、答えられた。
悟りの境地からみれば、功徳を求めたり、御利益を求めて修行や礼拝をしても、何も得るものはないとのお示しである。

 





禅の言葉−63「空手環郷」1997/9/1

道元禅師は、五年間に亘って宋国の天童寺で修行されたが、その帰朝時のお言葉である。
「入宋の土産は何も無い。本当に何も無い」と。
それまでの入宋の留学僧は、多くの経典や仏像などを持ち帰ったが、道元禅師は形に残る物は何も持ち帰らなかった。
道元禅師の持ち帰ったお土産は、如浄禅師直伝の全身が仏法、「身心脱落」の坐禅そのものであったのである。

 





禅の言葉−62「破草鞋」 1997/7/1

履き古した破れ草履のこと。物の溢れている現代では、破れ草履を修理して大切に履く人は少ない。
多くの人は「人に笑われてしまうのでは?」等と外見を気にしてしまう。
一休禅師は、立派なお袈裟を着けている自分を有り難がっている人に、あなたは私ではなく、私の着ているお袈裟を信仰しているのか?と戒めた。
一休禅師の飾らない風貌と、生きざまに学ぶことは多いのでは?





禅の言葉−61「卒啄同時」1997/6/1

卵の中で雛が育って殻から出る時、雛は中から殻をつつく。親鳥はその時を待って殻の外から同じところをつつい、ついに雛は殻を破ることが出来る。これを「卒啄同時」(そったくどうじ)と言う。
師弟の間もこれに似たことがある。時節の到来と、それに合わせる指導者の導きがあってこそ、弟子は育つのである。
子供を育てることも同じであろう。その子の力量に合わせ、本人が納得できる時が至らねば、親がいくら躍起となっても子供には通じない。


禅の言葉−60「家貧道富」1997/5/1

 

道元禅師は「学道の人貧なるべし」と言われた。道を求める人は質素倹約を旨とする。
世の多くの人々は、あれも欲しいこれも欲しいと求めてやまないが、これが不満のもとである。
釈尊は「不知足の者は富めりといえども、しかも貧し。知足の人は貧しといえども富めり」と示される。
次から次に欲しい物は限りなく、これではいつまでたっても心の安心を得ることが出来ない。
平凡と言われる日常の中に「足る」ことを知って、はじめて心の安心を得ることが出来る。これを「家貧にして道富む」という。

 


禅の言葉−59「天上天下唯我独尊」 1997/4/1

釈尊は生まれた直後に七歩歩いて、天と地を指さし「天上天下唯下独尊」と言われたという。「唯我独尊」ばかりが強調され、本来の意味からかけ離れ、自分勝手な我侭を表すように、あまり良い言葉とされていない。

 

本来の意味は、上は天から下は地までということは、この広い宇宙の中で自分という人間はたった一人しかいない、掛け替えのない尊い存在である。と同時に、他の人々もまた、各々がたった一人の自分と同じように尊い存在であることを示しておられる。
お互いがお互いを認めあう、ことが大切である。

 

禅の言葉−58「今日彼岸 菩提の種を 蒔く日かな」 1997/3/1

 

  
仏教では此岸(こちら側)を迷いの世界、彼岸(あちら側)を悟りの世界とし、此岸から彼岸に渡るべく精進努力するのである。 そのためには1)布施ー他に施し与えること 2)持戒ー決まりを守り、自分を正しく律すること 3)忍辱ーどんな時でも耐え忍ぶこと 4)精進ー努力を怠らないこと 5)禅定ー心を落ちつけること 6)智慧ー正しい判断力を身につけることの六つを実践して、はじめて彼岸に至ることが出来るとされている。これを「六波羅密」という。
葬儀の時に死者に「六文銭」を持たせる。これは三途の河の渡し賃などと言われるが、この六文銭は「六波羅密」を表している。故人が悟りの理想郷へ無事渡れますようにとの、残された者たちの願いが込められているのである。 死んでから悟りの世界に行くのも良いが、春秋の二度の彼岸会に、改めて「六波羅密」の実践に努め、生きながらにして理想の悟りの世界に足を進めようではないか。

 

禅の言葉−57「随処作主」(ずいしょにしゅとなる)1997/2/1

 

「随処に主となれば、立処みな真なり」どんな環境にあっても自己の主体性を失わず、何者にも影響されること無く、常に自らが主人公となって物事を処理してゆくことができれば、どこにいても真理を具現することが出来ると。他の意見に翻弄されることなく、正しいことははっきりと主張出来る自身でありたいものである。

 

禅の言葉−56「喫茶去」(きっさこ)1997/1/1

趙州禅師は、凡聖・愚賢をこえ、誰にでも「喫茶去」(お茶を召しあがれ)と分けへだてなく接した。
茶席では、亭主が茶をすすめる時、貧富や利害をはなれ、等しく対する。
日常の生活においても貴賎や貧富、利害得失、老若男女に等しく相対しているだろうか?
相手によっては居丈高になったり、あるいは逆に卑下したりということはないだろうか点検し、
誰に対してもわけへだてなく相対することが大切である。



禅の言葉−55「歩々是道場」(ほほこれどうじょう)1996/12/1

どんな山中の閑静な処にあっても、心に妄想邪心があっては道場とはいえない。
維摩居士は「正直な心、素直な心であれば、何れの処も道場、即ち修行の場である」と。
修行の場は、各人の内にあるのであるから、各人のすること為すことの、一歩一歩が仏道完成への一歩であると。



禅の言葉−54「自屎不覚臭」(じしくさきをおぼえず)

自分の糞は臭さを感じない。自分のこととなると何事も気が付かないのが私たちである。
とかく自分のことは希望的に美化してみがちである。時には自分をいじめぬいてみよう。
自己の欠点を自覚反省のうえに、真の自己を究明することが、禅の道である 。



禅の言葉−53「冷暖自知」(れいだんじち)

熱いストーブに手を触れた赤ちゃんは、二度とストーブに近かずかない。
冷たい、暑いは自らの肌で感じ取って、初めてわかるものである。
禅では、言葉や文字で悟らせるのではなく、自ら悟らせることを主眼としている。



禅の言葉−52「羊頭狗肉」(ようとうくにく)

羊の頭を看板に出して犬の肉を売る。
転じて良い品を見せ掛けて、悪い品を売る喩えである。
往々にして見せ掛けにとらわれがちであるが、内蔵されたほんものの姿を見極め、尊ぶのが禅の教えである。
一休禅師は身につけている袈裟によって、相手の対応が大きく変わることを諫めた。




禅の言葉−51「放下着」(ほうげじゃく)

厳陽和尚が趙州和尚に尋ねた「私は何にももっていないがどうすればよいでしょうか?
趙州云く「放下着−捨ててしまえ」と。
厳「何ももっていないのに何を捨てるのか?」
趙「そんならさっさと持ち帰れ」と。
厳陽は何も持っていない(悟っている)という大きな荷物を背負っていた。慢心を捨ててさらなる一歩を進めましょう。


禅の言葉−50「花誰為開」(はなたがためにかひらく)

百科爛漫と咲き誇る花は、誰のために咲くのであろうか。人を喜ばせるため?はたまた昆虫達を呼ぶためであろうか。
花ばかりではない。すべては以て生まれた天分によって、時節因縁の熟すのを待って開花するのである。
私達も、他に惑わされることなく、私達が本来そなえ以ている妙味を、如何に発揮するかに精進すべきではなかろうか。


禅の言葉−49「本来面目」(ほんらいのめんもく)

「春は花、夏ほととぎす、秋は月
    冬雪さえて、冷しかりけり」
道元禅師が本来の面目として詠まれたものである。
無心の心で四季に接するとき、本来の妙味を味わう事が出来ると。
禅は、行によって(坐禅・御詠歌・写経)自己の本来の心の姿を掌握することにある。


禅の言葉−48「諸悪莫作衆善奉行」(しょあくまくさしゅぜんぶぎょう)

中国唐代の白楽天が「仏教の大意とは?」とたずねたときの道林禅師の答えで「悪いことはせず、善いことをすること」とのお示しである。
白楽天が「三歳の童子でも知っていますよ」と言うと道林禅師は「言うだけなら三歳の童子でもできるが、行うのは八十の老人でも難しい」と答えたという。
故に自ら其の意を浄めよ、それが仏の教えであると。               
 


禅の言葉−47「慈眼視衆生」(じげんじしゅじょう)

「観音経」に「慈眼を以て衆生を視る」とある。観音菩薩が人々の心に深く信仰されるのは、その優しい眼差しに心の安らぎを覚えるからであろう。目は心の門と言うが、広大無辺な観音菩薩の慈愛に満ちた眼差しは、母が子を見守るがごとくである。観音さまこそは、私たちを我が子と慈しまれているのである。
願わくは、私達自身も慈悲の目をもって全てを見たいものである。


禅の言葉−46「随処作主」(ずいしょにしゅとなる)

趙州和尚は「他は十二時に使われ、我は十二時を使う」と言われた。
私たちは、往々にして時間をはじめ周りの事柄に振り回されてしまうが、趙州和尚は、それらを意のままに駆使しているという。
これが「随処に主となる」である。
師走の忙しさの中「十二時」に使われぬよう心がけては如何?


禅の言葉−45「明鏡無心」(めいきょうむしん)

曇り無い鏡は、外界のあらゆるものをありれままに写し出す。ここには写そう、写すまいの差別はない。
自我、我欲に執着するから苦しむのであって、心中の鏡がしっかりと確立していれば、苦しみ悩むこともない。
私たちは産まれた時は、皆無心であり、本来の姿は、明鏡無心であったはずである。


禅の言葉−44「東西南北」(とうざいなんぼく)

趙州和尚に、その禅風をたずねると、「東門、南門、西門、北門」と、答えた。
門は自由に出入りできてこそ、価値があり、閉ざされていては何の役も果たさない。
人は自分のまわりに垣根を張り巡らし、出入りを拒みがちであるが、人間本来にたちかえり、自由自在、当意即妙に生きてゆかねばならぬと。


禅の言葉−43「時節再難逢」(じせつふたたびあいがたし・・・)

自分はいつまでも若いと思っていると、いつの間にかシワが増え、白髪となってしまっている。
もう一度若い時代に戻りたくても、それはもはや叶わない。
今日の一日は、再び逢うことはできない、尊ぶべき一日である。よくよく無駄に時を過ごさぬようにとのお示しである。


禅の言葉−42「非思量」(ひしりょう)

坐禅の時の心の持ちようについて、道元禅師が述べられたものである。
人間、生きている以上意識を断ち切ることは出来ない。非思量とは、次から次へと浮かび上がってくる雑念に振り回されず、それを追わないことである。
捉われない心、偏らない心、大きな視野にたって物事を捉えることができるなら、それは雑念を脱した、禅者の生き方と言えよう。


禅の言葉−41「不生不滅」(ふしょうふめつ)

「般若心経」の中に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とある。
盤珪禅師は、人間の本性は鏡のようなもので、本来何もないと。物は映るが鏡の中には何も生じない。鏡の前から物が去れば消えるが、鏡の中に滅した物は何もないと・・・。
私たちは鏡に映った物にとらわれて、本来の姿を見失ってはいないだろうか。


禅の言葉−40「蓮出汚泥」(はすはおでいよりいず)

黄檗即非如一禅師の「珠は濁水に沈み、蓮は汚泥に出ず。迷は煩悩となり、悟りは即ち菩提」の中の一句である。
美しい蓮の花も、その根は汚泥の中にあり、それを栄養として美しい花に生育する。
私たちは迷い・煩悩があればこそ、それは菩提となりうると。
すなわち釈尊に帰依し、行に専念すれば煩悩即菩提となりうるのであると。


禅の言葉−39「廓然無聖」(かくねんむしょう)

梁の武帝は大変仏教を篤く信仰していた。ある時、武帝が「悟りとはどのようなものか」と尋ねると、達磨大師は「廓然として聖もなし」と答えられた。
悟りの境地からみれば、聖も凡も無いのだから、聖として求めるものもなく、凡として捨て去るものも無いと。


禅の言葉−38「洗鉢盂去」(はつうをあらいされ)

一人の修行僧が、趙州に修行の指導を願うと、趙州は「お粥を食べたか」と問うた。
僧が「ハイ」と答えると趙州は「それでは盂鉢を洗っておきなさい」と、答えた。
この言葉の裏には、多くの意味を含んでいるが、全てを捨て去ったところで、当たり前のことを淡々と行じていくことが大切である。

 


禅の言葉−37「松無古今色」(まつにここんのいろなし)

「松に古今の色無し、竹に上下の節有り」というのが、全句である。
松は季節の変化に関わらず、常に緑の葉におおわれている。まわりに惑わされることなく、変わらざる心で生きたいものである。竹には上下の節がある。それぞれの立場をわきまえてこそ、秩序も保たれる。私心を捨てて、互いに助け合っていきたいものである。


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